歴代ショートNo.1 小坂誠の経歴・守備力・セイバーメトリクスを解説【ロッテ・巨人・楽天】

2024年5月5日

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小坂誠のプロフィール・通算成績

管理人

歴代No.1ショートとの呼び声高い「小坂誠」の魅力に迫ります!

プロフィール

まずは、簡単なプロフィールを見てみましょう。

出身地宮城県亘理郡山元町
生年月日1973年7月2日
身長167 cm
体重63 kg
投球・打席右投左打
ポジション遊撃手、二塁手、三塁手
プロ入り1996年 ドラフト5位
経歴宮城県柴田高等学校
JR東日本東北
千葉ロッテマリーンズ (1997 - 2005)
読売ジャイアンツ (2006 - 2008)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2009 - 2010)

プロ野球選手の中では、かなり小柄な体格であることが特徴的ですね。ドラフト順位も高くはありません。

しかし、1年目からそんな低評価をはねのける活躍を見せ、開幕戦から遊撃のポジションを奪い、全試合に出場してパ・リーグ新人王。新人の最多記録を塗り替える56盗塁もマークしています。

通算成績

年度球団試合打席打数安打本塁打打点盗塁打率出塁率長打率OPS
1997ロッテ135595499130130560.2610.3290.3230.651
1998124527430100333430.2330.2990.3190.617
1999130586482135340310.2800.3580.3780.736
2000135559462110130330.2380.3340.2990.633
2001140657550144135320.2620.350.3250.675
20029338033482115110.2460.3020.3290.631
2003134592516133340270.2580.3260.3430.669
2004893002426112660.2520.3360.3260.662
200511836732191431260.2830.3530.4020.755
2006巨人922552184001240.1830.2710.2250.496
200756312430320.1250.2670.2500.517
2008137700010000
2009楽天105213176401870.2270.2970.2730.570
20107000000----------------
通算:14年1371506942611069193032790.2510.3270.3270.655

タイトル・表彰

盗塁王:2回(1998年、2000年)

  • 新人王(1997年)
  • ゴールデングラブ賞:4回(遊撃手部門:1999年 - 2001年、2005年)
  • 月間MVP:1回(野手部門:1997年4月)
管理人

ゴールデングラブ賞4回受賞はさすがです!

小坂誠の経歴

プロ入り前

少年野球時代はチームの後輩に小野淳一がいました。山元町立山下中学校を卒業し、宮城県柴田高等学校では甲子園出場はありませんでした。

高校卒業後は社会人野球のJR東日本東北硬式野球部に5年間在籍していました。
1995年には都市対抗野球にチームとして53年ぶりの出場を果たし、翌年も連続出場して1番を打ちました。ヤクルトスワローズのスカウトを務めていた佐藤孝夫(白石市出身で仙台鉄道管理局から国鉄スワローズに入団)は、小坂の才能を見出して獲得するよう推薦しましたが、低身長を理由に却下されました。しかし、あきらめきれない佐藤は千葉ロッテマリーンズのGM広岡達朗(元ヤクルト監督)に「ヤクルトは取らないけれど、背は低いが俊足で守備範囲の広い遊撃手なんだ」と推薦し、実際に小坂を調査した広岡は即座に獲得を決意しました。1996年度のドラフト会議で5位指名され、背番号は00でした。

ロッテ時代

1997年の開幕から遊撃手のレギュラーとして活躍し、3・4月の月間MVPを獲得しました。シーズン全試合出場を果たし、新人王に選ばれました。
盗塁王のタイトルは松井稼頭央が獲得しましたが、この年に記録した56盗塁はそれまでの新人最多記録である佐藤孝夫の45盗塁を大きく上回る記録でした。

1998年から背番号を1に変更し、松井稼頭央と並んで43盗塁で盗塁王に輝きましたさらに、プロ野球史上初の「40盗塁・40犠打」も達成したそうです。

1999年は31盗塁を記録しましたが、松井稼頭央に1個及ばず盗塁王を逃しました。同年は打率.280、出塁率.358を記録してゴールデングラブ賞も初受賞し、以後2001年まで受賞し続けました。1998年に続き2年連続でリーグ最多犠打も記録したそうです。

2000年は33盗塁で自身2度目となる盗塁王を獲得しました。

2001年には木塚忠助以来プロ野球史上2人目となる新人から5年連続30盗塁を記録し、打撃では打率.262、出塁率.350と復調したそうです。

2002年は開幕早々に右足を骨折し長期離脱しました。新人から連続30盗塁と連続100安打の記録が5年で止まりましたが、通算4度目となるリーグ最多三塁打を記録したそうです。

2003年には通算50三塁打を達成し、2年ぶりに100安打以上を記録したそうです。

2004年は腰痛などの故障が長く続き、出場試合数が大幅に減少しました。この年からボビー・バレンタイン新監督の統計スタッフの分析により「ゴロヒットよりフライヒットが多い」との指摘を受け、転がす打撃から外野へ飛ばす打撃にスタイルを変えました。シーズン途中から眼鏡を使い始め、2007年からコンタクトレンズを試みた時期もあったそうですが、その後、眼鏡とチューインガムがトレードマークとして定着したそうです。

2005年1月1日に結婚し、4月22日には通算1000試合出場(401人目)を地元宮城県のフルキャストスタジアム宮城で達成しました。6月5日には通算250盗塁を達成。以後、西岡剛、堀幸一らと共に二遊間を3人でローテーションするという独特のシステムの下(出場の試合は全て遊撃手)で活躍し、打率.283、出塁率.353、自己最高となる4本塁打を記録。チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献しました。さらに、通算4度目となるゴールデングラブ賞も受賞しました。12月21日に金銭トレードで読売ジャイアンツへ移籍。

巨人時代